「火花」 又吉直樹著
正直に白状します。
僕は又吉先生が『火花』を出版されたとき、ないしは、芥川賞を受賞されたとき、"その辺の薄っぺらいミーハーみたいにはみられたくない"という変な意地を張っていて、頑なに読もうとしませんでした。流行には乗りたくないみたいな。ただの天邪鬼なんですけどね。
「ねえねえ、『火花』読んだ? ……えー、読んでないの? 本好きなのに?」
普段は本なんか一冊も読まなそうな人たちからこんな風に散々に言われたので、自尊心はズタズタ。もう絶対に読んでやるものかあ~! と決め込んで殻に閉じこもってしまいました。又吉先生、本当にごめんなさい。
そして、文庫化からも一年以上経った先月、ようやく買って読んでみようと決心しました。
数時間後には読み終えていて、ひたすら後悔しました。
ミーハーだとか、ひたすらケチをつけていた自分が恥ずかしい、ぶん殴ってやりたい。何故、こんなにも素敵な作品を敬遠していたのでしょうか。芸人さんだからって、色眼鏡をかけていたというのも少なからずあるでしょう。そのときの流行だからとか、みんながタカっているから俗だとか、そんなものだけで判断してしまうのもとてもダサい行為ですよね。みんなが"嫌い"なものが"好き”なときもあるでしょうが、みんなが"好き"だという理由だけで"嫌い"になってしまうのはただの天邪鬼です。良いものは良いんです。話がだいぶ反れましたが……。
読んだ方も多いでしょうからさらっと粗筋をご紹介すると、売れない芸人の徳永が神谷という先輩芸人と出会うことで改めてお笑いや生き方について考え直すオハナシです。出てくるお笑いの話がリアルというか、又吉先生の実体験なんだろうなあという場面がちらほらと。あくまで想像ですが。
僕は小さい頃、本当に"自分には才能があるんだ"と、大きな勘違いをしていました。頭の中では自分が王様とでもいわんばかりの素敵な将来のビジョンで常に溢れかえっていて昼寝もままなりませんでしたし、保育園で絵の個展を開いたり、スーツを着て側転を決めたり、今では考えられないほどマルチに活躍していました。それはそれでそのまま突き抜けてほしかったのですが、どこかで簡単にポキッと折れてしまい、自分に才能がないことに気がつき、いつからかネガティブで酷く屈折した性格が完成してしまいました。
主人公の徳永と、神谷さんの違いって、そういうところなんじゃないでしょうか。
神谷さんの笑いは、兎に角誰もやってこなかったことばかり。漫才も斬新かつ奇抜。だから、色物扱いであまり受け入れられない。ただ、そんなアウトローな自分に酔っている節もなく、それはただひたすら面白いことを追求していった先に必然としてあるもの。
才能って、なんなのでしょうか。
おそらく、大衆に理解される才能など、それだけ高が知れているといえるでしょう。本物は常に、僕らの知らない外側にある。
先ほどは"大きな勘違い"と書きましたが、もしかしたら小さい頃は誰もが才能を持っていたのかもしれません。あの頃は確かに、今とは違う期待感というか、そもそも纏っているオーラ自体が全く別のものだったと思います。それを――なにが契機かは覚えていませんが――自分には無理だと勝手に決め付けて、逃げて、諦めて、手放してしまいました。社会の荒波に揉まれて~とか責任転嫁するけれど、実際は自分自身がこの手で手放したもの。どこまでもピュアで素直であることが、才能なんだと思います。
でも、ウケたい。生きていくためには、お金がほしい。大衆に媚びて、それなりにキャッチーなネタを作らなくてはならない。
その葛藤に苦しみます。主人公も、そしてこの僕も。おそらく、誰もが。
十中八九、そんな葛藤をしている時点で、既に才能を手放してしまった凡才です。天才になろうとするのは諦めましょう。なろうとしてなれるものではありません。
ですが、大衆にも解りやすく、それでいて自らの信念も貫ける――丁度いい場所を見つける秀才に化ける人も中にはいます。それはおそらく、血と汗が滲むような努力をすれば誰でも見つけられるようになるでしょう。血と汗が滲むような努力をすれば。
僕なんか、と膝を抱える夜を何度乗り越えたことか。凡才には天才がなにを言っているのか、全く解りません。それでも、ひたすらアウトプットするしかない。笑わせるんじゃなく、笑われながら。それでも、ひたすらやるしかない。
終盤の漫才では、涙が溢れました。僕はあまりこのコンビのことを知りませんが、なんだかシンパシーを感じて、終わってしまうのがとても悲しかった。そして、お疲れ様と言ってあげたかったです。見知らぬ観客の一人でしたが。